つい先日、実はオレは実家に帰省していた。目的は幼なじみの「Iちゃん」に会うことだった。
オレとIちゃんは幼なじみというにはあまりに早すぎる時点ですでに出会っていた。オレは生まれつき体が弱く、母親に言わせると月一万円の医療費をオレのために予算として取ってあったらしい。昭和40年台当時の一万円だから立派に大金だ。言っていればオレはそのくらい病弱な子どもだった。
そんなオレが病気になるたび通っていた小児科には、Iちゃんもぜんそく治療のために継続的に通っていた。同じ病院に通う、同い年の病弱な子供を持つ母親同士はすぐに仲良くなったらしい。
そのころはまだオレやIちゃんの物心がつく前の話で、オレの一番古い記憶にすでにIちゃんは存在している。詳細はよく覚えていないが、病院にある自販機のフルーツ牛乳かコーヒー牛乳かなにかをIちゃんは飲んでいたがオレは飲ませてもらえなかったという記憶がある(オレはすぐおなか壊しちゃうから飲ませてもらえなかった)。もしかするとそれ以前の記憶も何かの拍子に思い出せるのかもしれない。
オレとIちゃんは同い年で、保育園・小中学校時代は言うに及ばず、お互い違う高校に進学しても一緒に遊んでいたし、大学生や社会人になって住むところが離れても付き合いはずっと続いた。
Iちゃんとは大概の遊びは一緒にやっている。麻雀はもちろん、海も山も沼も池も湖も、酒を飲みにも女を買いにも一緒に行った。このブログは麻雀ブログなのでとりあえず麻雀の話にするか。
* * * *
オレが麻雀を覚えたのは高校時代で、Iちゃんではなくて同じ高校の友達の影響で打ち始めた。そのころIちゃんも麻雀に興味を持ちはじめていて、IちゃんはIちゃんで麻雀を打つ仲間を持っていた。
そのうち、オレとIちゃんはお互いのポン友ネットワークを相互に利用して麻雀の面子を集めるようになった。Iちゃんの家の黒電話の前に陣取り、片っ端から電話をかけて麻雀の面子を集めていた。まだ携帯電話どころかポケベルがビジネスユースでしか使われていないような時代で、高校生に個人の電話などなかった。家に電話して家族に取り次いでもらってやっと話ができる。相手が出かけていればそれまでで次のヤツに電話するしかなかった。そんな感じだったから「ポン友リスト」にはたくさんの電話番号が必要だった。
そんな感じだったから、必然的によその家(へたをすると知らないヤツの家)に打ちに行くことも多くなった。オレとIちゃんは他流試合みたいな感じでその麻雀を楽しんでいた。終わった後、二人で反省会やったりもした。天鳳みたいに牌譜があるわけじゃないから緻密なやつじゃなくてもっとざっくりとしたやつだ。統計もないし「科学する麻雀」もない時代だから、反省が流れ派チックになるのは仕方がない。自分が打った麻雀はそういう風にしかとらえることができない時代だった。
阿佐田哲也作品を読み出したのもこの頃だ。「麻雀放浪記」「新麻雀放浪記」「ギャンブル党狼派」なんてのを二人で読んでは話をした。オレが今「上野の健」と名乗っているのも、このころの原体験があるからだ。ドサ健について言えば、オレもIちゃんもすげえキャラクターだと思っていた。オレは坊や哲(筆者)から見た理想の博打打ちとしてのドサ健を、Iちゃんは青春編にある「カモ教育」に感銘を受けていた。
おい、オレと組まねえか。おまえにゃあ見込みがある。単純に組み麻雀一発やろうってんじゃねえんだ。組織を作る。麻雀倶楽部も一軒作る。坊やいつかきただろ。あそこだ。そこでマージャン教室もやるんだ。
そうだ。麻雀を教えるんだ。そこらの闇市のおっさんたちに麻雀のおもしろさを教える。ま、カモ教育だ。いままでの博打打ちは漁師が海で魚獲るみてえにぶったくるばっかりで、客の養成をしなかった。だからどんどんカモがいなくなる。百姓みてえにタネをまいて、育てて、それをいただくようにするんだ。どうだ、やってみるか?
(映画・麻雀放浪記より)
Iちゃんはどちらかといえば戦略家で、こういう戦略を考えるのが好きなタイプだった。受け入れを狭くして先切りするようなIちゃんの麻雀の打ち筋からもそういうところはうかがい知れた。
でもそういう戦略家肌なところが今度ばかりは裏目に出ちまったようだ。実はオレがIちゃんに会いに帰省したのはそのためだった。
(つづく)
←人気ブログランキング参加中!ポチッとクリックして応援お願いします!
←にほんブログ村ランキング参加中!ポチッとクリックして応援お願いします!

■土日曜劇場 JAN -雀- 完結!こちらからどうぞ。
土日曜劇場 JAN -雀- 目次ページ
■Twitterでフォローしてください!ブログの更新をお知らせします!
